あの日から40年…御巣鷹の尾根が教えてくれること
1985年8月12日。
多くの人が夏休みを過ごすお盆の時期に起きた、 日本航空123便墜落事故。
今年2024年は、事故から40年という節目の年を迎えます。
事故現場となった群馬県の御巣鷹の尾根では、4月29日に「山開き」が行われ、遺族や関係者が慰霊に訪れました。
事故から40年経った今もなお、私たちが忘れてはならない教訓が、そこにはあります。
1. 悲しみと怒りを乗り越えて
事故で家族を亡くされた遺族の方々は、深い悲しみと、原因究明が進まないことへの怒りを抱えながら、御巣鷹の尾根に足を運び続けました。
遺族の一人である美谷島邦子さんは、事故後「8.12連絡会」の事務局長として、事故の真相究明と再発防止のために尽力されました。
美谷島さんは、当初は悲しみと怒りを抱えて登った御巣鷹の尾根を、今では「いろんな方に支えられて、優しい山になった」と語ります。
2. 事故発生時の状況
事故は、羽田空港を離陸してわずか12分後に発生しました。
機内に響いたのは、爆発音のようなノイズ。
機長は「なんか爆発したぞ」と叫びました。
生存者の証言によると、機内は白い霧のようなもので覆われ、酸素マスクが落ちてくるなど、パニック状態だったと言います。
また、トイレの天井が抜け落ち、機体の布が見えるという異常事態も発生していました。
3. テロの可能性も?
事故直後、アメリカの調査チームはテロの可能性も視野に入れて調査を開始しました。
ボーイングの事故調査担当者は、機体後部のトイレ付近から「外の光が見えた」という情報があったことから、爆弾の可能性を疑ったそうです。
しかし、最終的には爆弾につながる証拠は見つからず、テロの可能性は排除されました。
4. 御巣鷹の尾根から学ぶこと
御巣鷹の尾根は、単なる事故現場ではありません。
事故の犠牲者を悼み、安全への誓いを新たにする場所であり、悲しみを乗り越え、未来へと繋ぐ場所でもあります。
私たちは、この事故を風化させることなく、 安全に対する意識 を高め、二度とこのような悲劇が繰り返されないようにしなければなりません。
御巣鷹の尾根は、私たちに 「安全」の尊さ を教えてくれています。
「いろんな方に支えられて、優しい山になった」――
今年4月29日、事故から40年目の「山開き」を迎えた群馬県の御巣鷹の尾根には、遺族や日航関係者、メディアなどが多く集まった。その中に、遺族のひとりで「8.12連絡会」事務局長を務める美谷島邦子さんの姿があった。悲しみや怒りを抱きながら登った御巣鷹の尾根・・・美谷島さんはそんな場所を「いろんな方に支えられて、優しい山になった」と語った。会の活動は今、他の事故や災害の被害者遺族らとの連帯に広がり、御巣鷹の尾根に共に登る交流につながっている。
離陸して12分 機長叫んだ「爆発したぞ」
123便に異変が起きたのは、羽田空港を離陸してわずか12分後のことだった。突如機内に響いた爆発音のようなノイズの直後、機長が叫んだ。「なんか爆発したぞ」。この事故で救出された4人の生存者のうち、非番で乗り合わせていた客室乗務員は、当時の機内の様子をこう証言している。
「バーンという音とともに、酸素マスクが落ちてきました。機内がもう白く濁ったような状態で、耳がツーンという感じで、もうパニックで…その時、私は後ろを向いたら、トイレの天井がスッポリ抜けて天井が無くって、機内の布っていうか、ペラペラした感じのものが見えました」
別の生存者も「白い霧」のようなものを見た、と証言している。これは、急激な減圧が発生した際に空気中の水分が凝結して起こる現象だ。
事故直後、アメリカの調査チーム(機体の製造メーカー・ボーイング、NTSB=米国家運輸安全委員会、FAA=米連邦航空局で構成)が派遣され、独自の事故調査を進めていた。ボーイングで事故調査を担当したジョン・パービス氏は、当初テロを疑ったと語る。
「これはテロ事件ではないかと思いました。アメリカ側の誰もが、爆弾の可能性を考え、調べてみる必要があると感じていました」
日本へ向かう前に気になる報告があったという。「機体後部のトイレの後ろから『外の光が見えた…』という話が伝えられていた」。しかし、最終的にこれは誤った情報だった。トイレの壁などを調べたが、爆弾につながる証拠は見つからず、テロの可能性は排除されたのだった。
コメント